吉六の系譜
11代続いた飯島石工の系譜です。
内容は、北村正幸氏の著書(謝辞[1],謝辞[2]) を元にしています。
代 | 名前 | 生没年 | 記事 |
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1 | 金兵衛 | ~1737 |
元禄年間(1690頃)鶴見へ移住したと言われています。 東福寺の石階標に 名前が残っています。 |
2 | 五郎右衛門 | ~1755 |
稲毛神社石水盤, 成願寺門前出羽三山碑 東福寺前道標に 名前が残っています。 金兵衛との関係は不明(親子?,兄弟?)です。 また、出羽三山碑や 稲毛神社 小土呂橋遺構の 橋脚銘文に「吉六」の名があり、 これが五郎右衛門の別名なのか、次の三代目を指しているのかは不明です。 |
3 | 吉兵衛 | ~1766 |
現在「石工 吉六」銘を、実際に確認できる最初の 鶴見神社脇鳥居の 作者と考えられています。 五郎右衛門との関係は不明(親子?,兄弟?)です。 |
4 | 吉十郎 | 1750~1792? |
三代目吉兵衛の子と考えられていますが、 吉兵衛が亡くなった時に十七歳だったため、 吉六の名を継いだのは、その17年後の 1783年とされています。 江ヶ崎八幡の 狛犬や左右大臣像(1788年)作成に関わったと考えられますが、 年齢の近い弟(五代目)との共同作業だったかも知れません。 |
5 | 仁三郎 | 1753~1815 |
四代目吉十郎の三歳違いの弟です。 腕の良い石工として知られた上に、長命だったこともあり 多くの寺社で鳥居、水盤、宝篋印塔、石碑を作っています。 馬場神明社の狛狐が 残っていますが、「狛犬」としての作品は無いようです。 |
6 | 軍次郎 | 1786~1840 |
仁三郎の息子です。 父の五代目同様腕が良く多くの石造物を残しましたが、 特筆すべきは「吉六の狛犬」を確立したことだと思います。 上の宮八幡, 末吉神社, 駒林神社, 篠原八幡, 六所神社の狛犬は、 従来の「尾立て」から「尾流れ」への流れを見事に取り込み・発展させた作品群を残しています。 |
7 | 幸次郎 | 1812~1845? |
六代目軍次郎の息子です。 父六代目の死後 1841年に戸主となりましたが、 その翌42年から44年まで「欠落(家出)」と記録されています。 となると、これも銘品である 綱島諏訪神社(1841)と 富塚八幡(1841)の 狛犬ですが、おそらく六代目が生前に作り上げていた可能性があります。 稲毛神社の山王宮碑に 「飯嶋幸次」という銘が残されており、 戸主になる前の幸次郎の作品と思われます。 |
8 | 惣五郎 (仁三郎) | 1815~1860? |
六代目幸次郎の三歳違いの弟で、 当初は「仁三郎」の銘で作品を残していますが、 兄の七代目幸次郎が家出中の天保14(1844)年に吉六を襲名し、 以降吉六として作品を残しています。 特に狛犬については、 鮫洲八幡の狛犬(1849)と 富塚八幡の狛犬(1841)は 類似点が多いことから、 両方の作成に惣五郎が関わった可能性があり、 さらにその特徴は 熊野神社の巨大狛犬(1853)や 黒船神社の狛犬(1854)に 引き継がれているように見えます。 「吉六の狛犬」がここで一つの頂点に達したと感じています。 しかし、飯島家は一時鶴見を離れたらしく、 萬延元(1860)年の稲毛神社の石水盤と 平間寺の墓碑を最後に約10年の間、 作品が見つかっていません。 |
9 | 茂吉 | 1838~1908 |
八代目惣五郎は兄である七代目幸次郎の息子である茂吉を養子として 吉六を継がせたようです。 茂吉は 生麦事件碑や、 妙遠寺の泉田二君功徳碑の作成を 依頼されるなど、文字彫りの名人として有名だったようで、 石碑に「鶴北斎」の銘を残すこともありました。 長命だったこともあり、石碑や墓碑を中心に明治後半まで数多くの作品を残しています。 狛犬については、耳が横に跳ね上がる富塚八幡以降のデザインを 引き継ぎつつ独自に発展させていった印象を受けます。 |
10 | 兼吉 | 1857~1874 |
兼吉は茂吉の弟子で、 十代目を引き継がせる予定だったと思われます。 しかし 17歳の若さで亡くなったため、銘のある作品は残していないようです。 (天王院に残る墓の戒名から 落石事故で無くなったと推測されています。 石工としては無念だったのではないでしょうか) |
11 | 吉六 | 生没不明 |
最後の十一代吉六については、本名・生没年ともに不明です。 九代目茂吉の息子と推測されますが、 十代目を弟子の兼吉にしようとしたことからも、 何か事情があったのかもしれません。 1902年に鹿島大神と 1906年に大島八幡 の狛犬を残していますが、若干精彩を欠いた感じを受けます。 上菅田八幡神社の従軍紀念碑が 1909年といわれており、以降吉六の作品は確認されておらず、石工を廃業したと考えられています。 |