天王院

所在地 神奈川県横浜市鶴見区寺谷1丁目2−1
総持寺から北へ突き出した舌状台地の中にある谷戸の斜面にそって寺院が広がっています。
古地図を見ると[1]、明治期までは東海道線と旧東海道に挟まれた現鶴見駅前郵便局から西に寺院があったようです。明治末期に火災により焼失したため、大正時代に現在地に移転しています。
訪問日 2023年9月,2024年9月,2026年5月

飯島家墓碑

奉献/建立 嘉永二酉年三月[1849年3月]
石工銘 飯嶋
本堂左横の石段を上がって墓地に入り、4つ目の角を左に曲がって少し進むと、飯島家の墓所となります。
墓石が3つあり、中央の墓石は「先祖代々墓/飯嶋」とのみ彫られています。
右側墓石には「先祖」という文字があり、後から墓石を作ったと思われます。
しかし、右側墓石と左側墓石の間に約100年の空白があり、他の墓石は改葬(寺院移転)の際に失われた可能性もあります。
古い順に5つの戒名が確認できます。
・天宝了眞信女(元禄三庚午天二月十七日:1690年)
・清應霜寒信士(正徳二壬辰天十一月十七日:1712年)
・真月壽三信女(正徳六丙申天五月廿四日:1716年)
・諦観禅定門(元文二巳天二月二日:1737年)
・妙観禅定尼(明和二乙酉天七月二十六日:1765年)
この中の墓碑右下にある「諦観禅定門」が、吉六初代の金兵衛と言われています。
左側墓石上には仏像を頂き、墓石に7つの戒名が確認できます。
・櫻露童女(嘉永二酉年三月朔日/ノチ:1849年)
・圓鏡童女(文久二戌年十二月四日/ナチ:1862年)
・春旭童女(元治二丑年二月六日/フク:1865年)
・光榮童子(慶應三卯年正月十六日/軍治:1867年)
・孝道落石信士(明治七戌年十一月廿四日/弟子/兼吉:1874年)
・念道妙縁童女(明治七戌年十二月四日/サト:1874年)
・歡山浄喜童子(明治三十年十一月廿一日/冨蔵:1897年)
墓石右端の「光榮童子(軍治)」は九代目茂吉の八歳で亡くなった子供で、左端の「孝道落石信士(兼吉)」が十代目となった弟子の兼吉のようです(「落石」という文字から死因が伺えます)
記されている最後の戒名は明治三十年歿となっており、吉六の確認できる最後の銘が明治三十九年であること、天王院の火災が明治四十四年(移転は大正)であることなどを考えると、移転の前に飯嶋家は断絶した可能性があります。

佐久間健吉之碑

奉献/建立 明治十三年六月[1880年6月]
石工銘 飯島吉六
墓地の北西に佐久間家の墓所が並んでおり、その中の一つに碑が立っています。
おそらく鶴見で代々名主を勤め旧東海道沿いに「名主佐久間家標柱[3]」が残されている佐久間家の縁者と思われます。

六地蔵

奉献/建立 不明
石工銘 (■島吉六)
本堂左側、墓地へ続く道の左手に新旧の六地蔵が置かれています。北村正幸氏の「鶴見村石工・飯嶋吉六 十一代続いた石工(謝辞[1])」によれば、祠に入っている旧の方には吉六の銘があるようですが、台座の剥落が著しく確認できませんでした。

弘法大師像

奉献/建立 不明
石工銘 不明
本堂左脇の墓地へ続く道の左手、墓地の手前に石仏群があり、その中に弘法大師像が2体置かれています。石仏群の中に本尊写(薬師)もありそうなのですが、確認できませんでした。

弘法大師像

奉献/建立 不明
石工銘 不明
2体ある弘法大師像の左側の像です。

寺号標

奉献/建立 昭和五年七月[1930年7月]
石工銘 鶴見 松原為三郎
北から山門へと続く道の左手に置かれています。
松原は現在の川崎市神地で創業した石工ですが、明治末期に子孫が鶴見で開業し、地元の鶴見神社生麦杉山神社で作を残しています。