永安寺

所在地 東京都世田谷区大蔵6丁目4−1
武蔵野台地の中から流れ出る仙川と、台地のへり(国分寺崖線)下を流れている野川に挟まれた三角形台地の野川側(南側)崖下に寺院境内があり、斜面は墓地となっています。

宝篋印塔

奉献/建立 文政十丁亥天三月[1827年3月]
石工銘 古市(場 勘蔵)
本堂の左手前建物の右横に置かれています。正面に「大乗妙典六十六部供養塔」とあります。
石工銘が摩耗しほとんど読めませんが、「世田谷区石造遺物調査報告書Ⅳ(謝辞[34])」によれば、「古市場 勘蔵」とあるそうです(古市場の石工と言えば、巳之吉なのですが、それより少し古いため、先代かも知れません)

榎本丑𠄡郎墓碑

奉献/建立 明治三十九年三月[1906年3月]
石工銘 溝口 内藤慶雲
墓地の入口付近に戦没者墓所があり、慰霊碑・墓碑・墓石が集められていました。
その中の一つで、日露戦役に従軍中に病に倒れ、野戦病院で亡くなった方の墓碑です。
※「𠄡」は「五」の異体字です。

敷石供養塔

奉献/建立 寛政七乙卯歳三月[1795年3月]
石工銘 六郷 永井佐兵衛
門前右側に並んでいる石碑群の左から二番目の石塔です。発願主は石居市右エ門という人で、左側面にある「檀越」は檀家を意味するようです。
石工の永井佐兵衛は、石井戸橋の石橋供養塔も手がけています。

石橋供養塔

奉献/建立 明治三十三年庚子二月[1900年2月]
石工銘 高津村二タ子 小俣松五郎
門前右側に並んでいる石碑群の右から二番目の石塔です。供養対象の橋名が書かれていませんが、かつて永安寺の西横門前を流れていた六郷用水に架けられた橋かも知れません。