川崎大師 平間寺

所在地 神奈川県川崎市川崎区大師町4−48
東海道の六郷橋川崎側のたもとから、現在国道409号となっている多摩川沿いの大師道を約2km西へ進んだところに寺院があります。
厄除のお寺として全国的に有名で、広大な境内には多くの伽藍が立ち並び、参拝客/観光客が絶えません。
かつては江戸から多摩川の羽田の渡し/大師の渡しを使って、穴守稲荷と一緒に参詣するルートが人気だったようです[6]
そのためか、境内には江戸/東京からも多くの石造物が奉納されており、神奈川以外の石工銘が多く見られます。
※以下記載の石造物の "エリア名[番号]" は、「公式ページの境内マップ[2]」を引用しています。

石燈籠

奉献/建立 明治三十三年九月[1900年9月]
石工銘 酒井八右衛門
大本堂の前左右に置かれた巨大な石燈籠です。石工銘はありませんが、「寄附 酒井八右衛門」とあるため、江戸の名石工である酒井八右衛門=井亀泉の作と推測しています。

三世桃隣句碑

奉献/建立 享和元辛酉三月[1801年3月]
石工銘 角長
所在地 地図
鶴の池エリア[2]の池東側に置かれています。三角形の石に三世桃隣の句「人ハ皆去て/聲安里/花尓鳥(人は皆去って声あり花に鳥)」が彫られ、背面には、施主の四世桃隣の他に、多数の弟子たちの俳号が列記されています。
初代桃隣は芭蕉の弟子で神田に居したようなので、恐らく三世/四世も江戸の人で、石工も江戸出身と思われます。

浅間大神碑

奉献/建立 大正十年十一月[1921年11月]
石工銘 竹内六之助
所在地 地図
大本坊エリア[3]にあります。大師富士登山会によって建碑され、背面に登山者の芳名が彫られています。
ここで六之助の作が出てくるとは意外でした。富士講界と竹内六之助との何らかの繋がりを感じさせます。

青木正太郎翁之碑

奉献/建立 昭和六年歳次辛未夏六月[1931年6月]
石工銘 東京多摩公園 吉野玉庵
所在地 地図
大本坊エリア[4]にあります。青木正太郎氏は、京浜急行電鉄の社長を明治末期から昭和まで勤め、社運の挽回と関東大震災の復興に尽力した功績に対する頌徳碑です。

鶴澤勝造君碑

奉献/建立 大正五年十月[1916年10月]
石工銘 京橋桶町 荒野號三富
所在地 地図
大本坊エリア[5]にあります。浄瑠璃三味線の名手と言われた三代目鶴澤勝造の功績を讃えるために門人が建立した碑です。

種梨遺功碑

奉献/建立 大正八年三月[1919年10月]
石工銘 内藤慶雲
所在地 地図
大本坊エリア[6]にあります。長十郎梨の発見者である、当麻辰次郎氏の遺功を称えた碑です。
大正時代には、発祥の地である川崎区から広く麻生区まで多摩川沿いが、梨の一大生産地となっていました。川崎(溝ノ口)の石工である慶雲がこの碑を手掛けているのも、それを考えると納得できます。

神奈川消防組碑

奉献/建立 明治三十四年三月[1901年3月]
石工銘 神奈川町十番丁 石井定次郎
所在地 地図
大本坊エリアにあります。他にも消防関連の碑がいくつか境内にあるようです。火消しの「いろは組」と空海のいろは歌との関連でここに奉納されたようです。
また、石工銘にある神奈川町十番町は、現在の仲木戸駅南東付近です。

忠魂碑

奉献/建立 明治四十二年一月[1909年1月]
石工銘 井龜泉
所在地 地図
中書院エリア[3]にあります。高さ4m弱の大きな碑です。背面に「大師河原村出征軍人」とあり、その下に戦没者と出征者の名前が記されています。

消防紀念碑

奉献/建立 明治二十年八月[1887年8月]
石工銘 井龜泉/宮龜年
所在地 地図
中書院エリア[4]にあります。江戸の町火消の組名にいろは文字が使われたことから、その由来を記した碑をいろは歌に所縁のある川崎大師に建立したといわれており、背面にはそれぞれの組名と所属者名が列挙されています。碑を囲む玉垣は明治二十二年三月の建立で、こちらにも消防組と思われる名前が並んでいます。
碑文に「千金の寶も、たちまち一塊の灰となり、積年の富も、ミるミる一刻の煙と消えるは、火の災いよりはなはたしきハあらさりけあらさりけり。」とあり消防の重要性が記されています(「川崎大師石造物調査報告書(謝辞[24])」より引用)。
碑を担当した石工の井亀泉と、玉垣を担当した宮亀年は、いずれも江戸から明治にかけて活躍した有名な江戸石工です。

伊呂波歌頌徳碑

奉献/建立 大正四年三月[1918年3月]
石工銘 田鶴年
経蔵エリア[4]にあります。碑表面にいろは歌が書かれており、背面には 400名を超える名前が並んでいます。石工は江戸(東京)の名石工と謳われた田鶴年です。

木村新左衛門紀念碑

奉献/建立 昭和五年仲秋[1930年]
石工銘 當所石匠 竹内喜助
経蔵エリア[5]にあります。明治三十五年に完成した旧山門を作った大工棟梁である木村新左衛門の業績を称えるために門弟たちが建立した碑です。新左衛門の山門は関東大震災にも耐えましたが、第二次世界大戦時の空襲で焼失してしまいました。

弘法大師一千御忌供養塔

奉献/建立 文政三庚辰年三月[1820年3月]
石工銘 不明
経蔵エリア[7]にあります。建立は文政三年(1820)となっており、公式ページの説明『空海上人が承和2年(835)にご入定』からだと985年になるようですが。

まり塚

奉献/建立 昭和廿六年十一月[1951年11月]
石工銘 石匠 竹内喜助
所在地 地図
八角五重塔エリアの北東角[1]にあります。東京太神楽曲芸協会によって建碑され、曲芸に使われたまり等の道具を供養しているようです。
塚の入口に置かれている現代狛犬は、昭和五十五年二月の建立です。

四國霊場開基壹千壹百年紀念碑

奉献/建立 大正三甲寅四月[1914年4月]
石工銘 東京神田區台𦕄町 嶋根熊蔵
八角五重塔エリアの南側に置かれています。細長い角柱状の碑で、正面に「四國八十八カ所遥拝所」とあり、右側面に「四國霊場開基壹千壹百年紀念」と彫られています。
石工銘にある「神田区台所町」は、現在の千代田区外神田二丁目にあたります。
また、施主の藤田元次郎は、豊島区でも八十八ケ所石標を石工「石熊」に依頼して建てている[7]ことから、「嶋根熊蔵」は、高円寺天祖神社の狛犬を作成した「石熊」[8]と同一の可能性があります。
「區」は「区」の、「𦕄」は「所」の異体字です。

関東大震災供養塚

奉献/建立 大正十三年九月[1924年9月]
石工銘 溝口𭎎次郎
八角五重塔エリアの五重塔側に置かれています。碑上部に「震災殃死納札者」とあり、「殃死」は「横死」の意で、事故・殺害・災禍など思いがけない災難で死亡することを意味し、関東大震災で亡くなった人々を追悼・供養しています。
表面には中心の「供養塚」という文字の周りに、千社札が隙間なく彫られています。
※「𭎎」は「幸」の異体字です。

石水盤

奉献/建立 昭和三十三年五月[1958年5月]
石工銘 當山御用達石匠 竹内喜助
所在地 地図
大山門エリアに手水舎があり、その中に幅が3mを超える大きな石水盤が置かれています。「川崎市石造物調査報告書(謝辞[11])」によれば、正面には「金飛水」と彫られているようです。
側面には「當山御用達 石匠 竹内喜助」とあり、竹内喜助が平間寺と縁の深い石工で、戦後も活動していたことがわかります。

海苔養殖紀功之碑

奉献/建立 大正九年九月[1920年9月]
石工銘 井龜泉
所在地 地図
大山門エリア[4]にあります。かつて川崎大師周辺の海域(大師沖)で行われていた海苔養殖50年を紀念して建てられたそうです。

後藤富五郎墓碑

奉献/建立 萬延元庚申十二月[1860年12月]
石工銘 鶴見橋 惣五
西解脱門の脇に「しょうづかの婆さん」で知られるお宮があり、その脇に墓地の南入口があります。墓地を入って北へ10mほど歩くと後藤富五郎の墓碑があります。
冨五郎は江戸の堂営彫刻師で、平間寺本堂の彫刻に従事したと考えられています。
裏面石工銘の右3人目に名がある「川崎洲河原 清蔵」は冨五郎の弟子の一人で、稲毛神社境内にある、子神社の彫刻で有名です(「川崎大師石造物調査報告書(謝辞[24])」より引用)。
「惣五郎」は吉六八代目の名前ですが、なぜ吉六の名を彫らなかったのか、以降約10年作品が途絶えるのはなぜか、など吉六史のターニングポイントとなる石造物です。