横浜熊野神社

所在地 神奈川県横浜市鶴見区市場東中町9−21
旧東海道に面していて、鶴見川から川崎側へ少し入ったところにあります。交通量も多く、始終人が行き来しています。広々とした境内と数多くの石造物の存在は、かつてこの神社が人々が集まる広場としての役割を持っていたことを想像させます。
訪問日 2022年12月,2023年5月,2026年3月

狛犬

奉献/建立 慶應二年柔兆摂提格孟■■[1866年]
石工銘 八幡 安𫝀郎
狛犬タイプ 尾流れ
当初見落としていましたが、台座を載せている石組の台に石工銘がありました(若干石質が違うので、後世の補造とおもっていました)。これにより、石燈籠と同じ石工 高橋安五郎による燈籠前年の作ということがわかりました。どちらも台座の浮彫が見事です。
「柔兆/摂提格」で「丙寅」を意味します[5]。月については、「孟」があるので、1,4,7,10月のどれかだと思うのですが。

改元記念碑

奉献/建立 大正二年九月[1913年9月]
石工銘 溝ノ口 内藤慶雲
神社入口から入って右手石柵際に置かれています。碑上部に富士講である本一講の紋が記されています。
ウィキペディアの「タテカワ講[4]」によれば、本一講は鶴見区江ヶ崎を中心に地元の鴨志田与右衛門によって結成された講だそうです。

添田知通壽臧碑

奉献/建立 明治二十七年三月[1894年3月]
石工銘 鶴北齋鐫
改元記念碑の横にあります。添田知通は市場村の名主だった人で、地域の治安維持や、多摩川の水を横浜にもたらす事業に大きな役割を果たしたと言われています[2]
「寿蔵碑」とは本人が存命中に、生前の徳をたたえるために建立した碑です。

日露戦争出征碑台座

奉献/建立 明治四十一年十一月[1908年3月]
石工銘 溝ノ口 内藤慶雲
添田知通壽像碑の横に台座が残っています。台座に従軍者/戦死者の名前があります。境内の隅に破損した石碑が並べられており、これが元々立っていたと思われます。

句碑

奉献/建立 昭和二十一年五月[1946年5月]
石工銘 木村壽年
江戸時代の俳人、加舎白雄と大島蓼太が東海道鶴見橋を詠んだ俳句の句碑で、神社公式ページの境内案内[1]によれば、「朝夕や 鶴の餌まきか 橋の霜」と「五月雨や 鶴脛ひたす はし柱」の二句が彫られています。

石灯籠

奉献/建立 慶應三年強(圉)單閼春■■[1867年(5月)]
石工銘 鈴之森八幡 安𫝀郎
鹿島大神と同じく、キャスター足のついた灯篭です。「強(圉)單閼」で「丁卯」を意味します[5]。「鈴之森八幡」は磐井神社の別名鈴ヶ森八幡と思われます。