天王院

所在地 神奈川県横浜市鶴見区寺谷1丁目2−1
鶴見駅西口から西へ緩やかな坂を登っていくと、天王院入口に出ます。明治期までは鶴見町にありましたが、東海道を走る汽車によって明治四十四年に火災となり、大正に現在地に移転しています。

飯島家墓碑

奉献/建立 嘉永二酉年三月[1849年3月]
石工銘 飯嶋
墓石が3つあり、中央の墓石は「先祖代々墓/飯嶋」とのみ彫られています。
右側墓石には「先祖」という文字があり、後から墓石を作ったと思われます。
しかし、右側墓石と左側墓石の間に約100年の空白があり、他の墓石は改葬(寺院移転)の際に失われた可能性もあります。
古い順に5つの戒名が確認できます。
・天宝了眞信女(元禄三庚午天二月十七日:1690年)
・清應霜寒信士(正徳二壬辰天十一月十七日:1712年)
・真月壽三信女(正徳六丙申天五月廿四日:1716年)
・諦観禅定門(元文二巳天二月二日:1737年)
・妙観禅定尼(明和二乙酉天七月二十六日:1765年)
この中の墓碑右下にある「諦観禅定門」が、吉六初代の金兵衛と言われています。
左側墓石上には仏像を頂き、墓石に7つの戒名が確認できます。
・櫻露童女(嘉永二酉年三月朔日/ノチ:1849年)
・圓鏡童女(文久二戌年十二月四日/ナチ:1862年)
・春旭童女(元治二丑年二月六日/フク:1865年)
・光榮童子(慶應三卯年正月十六日/軍治:1867年)
・孝道落石信士(明治七戌年十一月廿四日/弟子/兼吉:1874年)
・念道妙縁童女(明治七戌年十二月四日/サト:1874年)
・歡山浄喜童子(明治三十年十一月廿一日/冨蔵:1897年)
墓石右端の「光榮童子(軍治)」は九代目茂吉の八歳で亡くなった子供で、左端の「孝道落石信士(兼吉)」が十代目となった弟子の兼吉のようです(「落石」という文字から死因が伺えます)
記されている最後の戒名は明治三十年歿となっており、吉六の確認できる最後の銘が明治三十九年であること、天王院の火災が明治四十四年(移転は大正)であることなどを考えると、移転の前に飯嶋家は断絶した可能性があります。

佐久間健吉之碑

奉献/建立 明治十三年六月[1880年6月]
石工銘 飯島吉六
墓地の北西に佐久間家の墓苑が並んでおり、その中に碑が立っています。
おそらく鶴見で代々名主を勤めた佐久間家[3]の縁者と思われます。

六地蔵

奉献/建立 不明
石工銘 (■島吉六)
本堂左側、墓地へ続く道の左手に新旧の六地蔵が置かれています。北村正幸氏の「鶴見村石工・飯嶋吉六 十一代続いた石工(謝辞[1])」によれば、祠に入っている旧の方には吉六の銘があるようですが、台座の剥落が著しく確認できませんでした。

弘法大師像

奉献/建立 不明
石工銘 不明
本堂左脇の墓地へ続く道の左手、墓地の手前に石仏群があり、その中に弘法大師像が2体置かれています。石仏群の中に本尊写(薬師)もありそうなのですが、確認できませんでした。

弘法大師像

奉献/建立 不明
石工銘 不明
2体ある弘法大師像の左側の像です。