世田谷八幡宮

所在地 東京都世田谷区宮坂1丁目26−2
甲州街道と大山街道の間を北西から南東へ流れる鳥山川が、台地を削った北側崖線沿いに神社があります。世田谷城址や豪徳寺も崖線の同じ並びです。
崖線下に鳥居があり、すぐ横に段丘崖からの湧水を祀る境内社(厳島神社)や、奉納相撲土俵があり、階段で登った先が拝殿・境内となっています。

狛犬

奉献/建立 明治十一戊寅年一月[1878年1月]
石工銘 武州橘樹群二子村 小俣松五郎
狛犬タイプ 尾流れ(左:子,右:子)
拝殿前の狛犬です。やや大きな頭部が目立ちますが、細かく牡丹が彫りこまれた台座や親狛を見上げる子狛など、技がよく残っています。
小俣 最初期の狛犬で、まだ小俣らしさは表面に出ず、江戸獅子を忠実に表現しているような感じを受けます。

狛犬

奉献/建立 大正六年九月[1917年9月]
石工銘 石新
狛犬タイプ 尾流れ(左:子&珠)
境内社(招魂社)前に置かれています。凝った彫りではないのですが、珠や親狛の尾をかじったり、親狛の背中によじ登ったりする子狛の表現に生き生きとした動きを感じます。
「石新」銘の狛犬は他には無く、大森諏訪神社の百度石に「出川石新」という銘がありますが、同一石工かどうかは不明です。
奉納者銘にある「明智左馬之助」と言えば「秀満[3]」なのですが、銘に「光家」とあるのは、その御子孫でしょうか?

百度石

奉献/建立 明治三十九■年九月[1906年9月]
石工銘 溝ノ口 内藤慶雲
再度の石段を登って拝殿へ向かう参道の右側に置かれています。世田谷の総鎮守で慶雲に会えるとは思いませんでした。

日露戦役紀念碑

奉献/建立 明治四十一年九月[1908年9月]
石工銘 内藤慶雲 /原峯吉
境内社(世田谷招魂社)拝殿横に立てられています。百度石の二年後の建立で、慶雲と地場の石工である原峯吉との間に何らかの協力(協業)関係があったことがわかります。

軍人山碑

奉献/建立 明治四十一年九月[1908年9月]
石工銘 世田谷 原峯吉
日露戦役紀念碑の横に立てられています。建立年は同じですが、こちらは原峯吉の単独銘となっています。
「桜花の絆[4]」によれば、日露戦役紀念碑の建立時に経費・土地を寄進し、この地を「軍人山」と名付けたという経緯が記されているようです。

石水盤

奉献/建立 大正三年九月[1914年9月]
石工銘 原峯吉
東側入口の鳥居を入って右手手水舎の中に置かれています。正面に見たことのない紋が描かれています(井伊家井筒紋の変形でしょうか?)。石工の原峯吉は、世田谷で駒留八幡の狛犬弦巻神社の狛犬を手がけています。(昭和になってからの『石峯』銘はその継承者と思われます)

石碑

奉献/建立 文化十四丁丑年八月[1817年8月]
石工銘 江都高田馬場 石井熊右衛門
一之鳥居から最初の階段右手におかれています。碑銘がなく、碑文の彫りも浅いため、主旨はよくわかりませんでした。
背面にある銘の「大庭弥十郎」は、世田谷の代官を勤めた「大場弥十郎[2]」と思われます。地名の「彦藩」は彦根藩領だったことを示し、「上町」は現在も世田谷線の駅名に残っています。