泉龍寺

所在地 東京都狛江市元和泉1丁目6−1
六郷さくら通り沿いに東へ延びる崖線が小田急線と交差する手前に弁天池緑地とともに境内が広がっています。歴史と格式のあるお寺ということもあり、境内には多くの石造物が残されています。
また、墓苑に戦死者に対する顕彰碑が他より多く見受けられます。古刹であること、墓苑が広いこと等の他にも理由がありそうです。

寄附碑

奉献/建立 明治四十丁未年十一月[1907年11月]
石工銘 吉澤耕石
本堂左手前に置かれています。正面に「山林一反歩」と「金五拾圓」を寄付した旨が記載されています。

宝篋印塔

奉献/建立 嘉永三庚戌年仲春[1850年3月]
石工銘 登戸 吉澤藤三光信
本堂に向かって参道右手に置かれています。正面に「大乗妙典/一万部塔」と彫られ、台座には「福田氏」とあります。見づらいですが、台石に「江戸本所菊(川)」とあり、施主は現在の墨田区菊川在だったようです。

柏翁石谷君碑銘

奉献/建立 天保十三年歳在壬寅五月[1842年5月]
石工銘 下田喜成
宝篋印塔と同じ並びに置かれています。「狛江市文化財調査報告書(謝辞[20])」によれば、和泉村の領主でもあった旗本石谷清暠(柏翁)の墓碑のようです。旗本石谷家は、泉龍寺を菩提寺とし手厚く保護しています。

石仏墓碑

奉献/建立 天保第四龍舎癸巳年四月[1833年4月]
石工銘 登戸村 ■治郎
本堂に向かって左手、墓苑への入口付近に並んでいます。上部に石仏を戴いていますが、正面に「清水氏専蔵代々一切精霊」とあり、戒名も彫られていることから墓碑のようです。施主の入間村は現在の調布市から狛江市にかけてのエリアです。
石工銘に「登戸村」が付いていますが、続く文字は「吉澤」とは見えないため、天保期に吉澤以外の石工が存在したのか興味深いところです。

日露戦役紀念碑

奉献/建立 明治三十九年十一月[1906年11月]
石工銘 吉澤耕石
境内左手に置かれています。「桜花の絆[3]」によれば、日露戦役における狛江市戦没者5名の慰霊顕彰碑で、狛江村恤兵會の建立です。

寺号標

奉献/建立 萬延元歳在庚申暮秋[1860年9月]
石工銘 (登戸) 吉澤藤三光信
門前右側に建てられています。「延命子安地蔵尊」とあり、境内に入って左手に地蔵像が置かれています。

荒井悦蔵墓碑

奉献/建立 明治二十九季四月[1896年4月]
石工銘 村野正年
墓苑の中にあります。墓碑は漢文で書かれています。荒井悦蔵氏は、日清戦争に従軍し満洲国奉天省熊岳県熊岳城付近で負傷した後に亡くなったようです。
石工の村野正年は、同じ狛江の伊豆美神社の神社碑も作製しています。

忠霊碑(荒井留吉墓碑)

奉献/建立 明治三十四年四月[1901年4月]
石工銘 (向丘村 大木橘)
墓苑の中にあります。こちらも漢文で書かれており、日清戦争に従軍し、戦傷後亡くなったようです。
「狛江市文化財調査報告書(謝辞[20])」によれば、碑背面に石工銘があるようなのですが、確認できませんでした。

矢ヶ崎鐵太郎之墓

奉献/建立 明治三十九年十月[1906年10月]
石工銘 内藤慶雲
墓苑の中にあります。こちらも漢文で書かれており、日露戦争に従軍し、戦傷後明治三十七年に亡くなったようです。

谷田部国次郎君碑

奉献/建立 明治四十年歳次丁未三月[1907年3月]
石工銘 吉澤耕石
墓苑の中にあります。碑上部には「忠而孝」と書かれています。「狛江市文化財調査報告書(謝辞[20])」によれば、日露戦役に従軍し、明治38年3月10日の奉天会戦で戦死された方の顕彰碑です。