北辰妙見宮(妙見尊)

所在地 東京都稲城市百村
※妙見寺の中の奥の院という位置づけですが、ここでは、神社として記載しています。
三沢川が削った崖と多摩川が削った崖に挟まれた切り立った丘陵上に神社があります。京王稲城駅から入口(一之鳥居)まで歩けば5分ほどですが、そこから急な階段参道を3度登ってようやく拝殿にたどり着きます。かつての多摩丘陵の自然を感じさせる神社です。

狛犬

奉献/建立 明治三十九年[1906年]
石工銘 上染屋住 霞山村野正年
狛犬タイプ 尾流れ
三番目の階段参道の次の最後の階段参道の入口に大きな台座に載る小ぶりな狛犬が置かれています。
頭頂部に小さな窪みがありますが、角/宝珠を置いた後でしょうか?
石工の村野正年は、狛江市の伊豆美神社の石碑泉龍寺の墓碑に作品が残っています。

石水盤

奉献/建立 明治十一戊寅年二月[1978年2月]
石工銘 溝ノ口 內藤畱𫝀郎
拝殿前右手手水舎の中に置かれており、立ち上がった龍と水盤を担ぐ「がまん様」が目を引きます。
琴平神社の石水盤とほぼ同時期・同石工の作で、がまん様が担いでいるところも似ています。
背面と側面に細かい字で世話人の名が連記されていますが、その範囲の広さ(府中・小金井・深大寺・長津田・王禅寺・・)から信仰を集めていたことが伺えます。

狛犬残材

奉献/建立 (寛政六甲寅歳十一月)[1794年11月]
石工銘 不明
手水舎の右横に狛犬とおぼしき残材が置かれています。
台座と思われる石に「武州/多摩郡/百村願主/惣若者/同村氏子中」という文字が彫られていることから、「稲城市文化財調査報告書({謝辞[28][39]})」に記載されている寛政六年作の狛犬と思われます。

筆塚

奉献/建立 文政六年季春[1823年春]
石工銘 関長右衛门
拝殿右隣に置かれています。碑文によれば、菅原道真公の祠とともに廃筆を納めた塚として、建立されたようです。

星供壹百年祭記念碑

奉献/建立 大正十年十二月[1921年12月]
石工銘 登戸 吉澤耕石
拝殿右手に石碑が三基並べられています。いずれも奉納年月が同じであるため、建立目的が同一のセットと考えられます。
左の石碑には「星供壹百年祭紀念碑」とあり、他の2基には「星供永代護摩芳名」とあることから、左の石碑に書ききれない世話人名のために、別に石碑を追加したように思えます。
同じ石工の手によるものですが、碑の書体がそれぞれ異なっているのが興味深いです。
妙見寺のホームページ[1]によれば、今でも「星供祭」として星供法の大護摩供が山上で行われています。(ここでの「星」とは北斗七星を指すようです)

井戸枠

奉献/建立 明治十一年寅二月[1878年2月]
石工銘 溝(口) 内(藤)留(五郎)
二番目の階段参道と三番目の階段参道の間に左手へ行く道があり、その脇手に石囲いされた古井戸があります。
正面に「御供水」、側面に「村内中」と書かれています。石工銘は背面に微かに残っており、奉納年と残された文字「内/留」から石燈籠と同じ初代留五郎の作と思われます。

石坂再建碑

奉献/建立 大正十年十二月[1921年12月]
石工銘 登戸 吉沢耕石
二番目の階段参道と三番目の階段参道の間、右手に置かれています。

鳥居残材

奉献/建立 不明
石工銘 (矢ヶ崎村) 長左衛門
二之鳥居を入ってすぐ左手の境内社の左右に鳥居残材が置かれています。台石の彫刻が現役の頃の威容を偲ばせてくれます。
石工の長左衛門は 1800年代中頃に府中や狛江で作を残しています。

幟立て

奉献/建立 明治十四年二月[1881年2月]
石工銘 溝口 內藤留五郎
最初の階段参道を登った所、次の階段参道への入口左右に置かれています。
すぐ横の石燈籠と同じ石工の三年後の作です。

石燈籠

奉献/建立 明治十一戊寅年二月年月[1878年2月]
石工銘 溝口 內藤留五郎
最初の階段参道を登り切った所の左右に置かれています。細身ながら分厚い傘部が特徴的です。初代留五郎の初期の作となりますが、台石に彫られている躍動的な龍と亀に「勢い」を感じます。