穴澤天神社

所在地 東京都稲城市矢野口3292
多摩丘陵の北側崖上に神社境内があり、崖線下に流れる三沢川沿いに神社参道の入口があります。崖線下にはご神水が湧く洞窟(弁天社)もあり、神域全体が森に囲まれた自然豊かな神社でもあります。
下からの参道階段を登り切ったところにある社号標は、稲城の名付け親でもある窪全亮の書によるものです。
歴史がある分石造物も多く、明治以降の石造物はほぼ全て吉沢耕石が担当しており、神社(地元)との関係の強さを感じます。

狛犬

奉献/建立 天保十四癸卯歳三月[1843年3月]
石工銘 古市場村 巳之吉
狛犬タイプ 尾流れ
拝殿前に置かれています。眉や鬣、尾の渦巻き模様が丁寧に表現されており、いかつい顔にも関わらず、威厳を感じさせます。
また、台座には天神社ということで梅紋が彫られています。

石坂供羪塔

奉献/建立 弘化二巳龍舎三月[1845年3月]
石工銘 古市場邑 巳之吉
拝殿右手前、絵馬掛けの裏にありました。「石坂」の左右に「獅子/舗石」とあり、巳之吉が二年前に建立した狛犬含めて境内全体の石工作業を行ったようです。
※「羪」は「養」の異体字です。

筆塚

奉献/建立 文久三年亥天秋七月[1863年7月]
石工銘 (久左ヱ門)
拝殿左横、社務所脇に置かれており、当地で書道の指導者として活躍した原田金陵の功績をたたえた碑です。
「石造物と信仰(謝辞[29])」によれば台石の裏に石工銘があるはずなのですが、写真を撮ることはできませんでした。

小俣君寿碑

奉献/建立 明治三十年七月[1897年7月]
石工銘 登戸 吉澤光信
二之鳥居の右横に鉄柵に囲まれて碑が置かれています。稲城市の観光サイト[4]によれば関流和算の指導者だった小俣勇造氏の業績を弟子たちが頌徳した碑です。

建碑特志■

奉献/建立 明治三十九年五月[1906年5月]
石工銘 吉澤光信
境内の二之鳥居の外側に四基の慰霊碑が並んでいます。これだけの数が並ぶのはあまり見たことがありません。
これが最も左にある碑ですが、残念ながら碑名の最後の文字が読めません。人名が列挙され、建立が明治三十九年ということから日露戦役に関する慰霊碑と思われます。

干城招魂碑

奉献/建立 明治三十九年歳次丙午四月[1906年4月]
石工銘 登戸 吉沢光信
左から2つ目の碑です。左端の碑と同様に建立が明治三十九年で、日露戦役戦没者への慰霊碑です。「干城」とは、国家を防ぎ守る軍人を意味する言葉です。

日露戦役紀念碑

奉献/建立 明治三十九年龍集丙午四月[1906年4月]
石工銘 登戸 吉沢光信
左から3つ目の碑です。左隣の碑と建立年月が同じですが、その表現が少し異なっています。内容は、日露戦役戦没者への慰霊碑です。

大東亜戰争戰没者慰霊碑

奉献/建立 昭和四十二年十月[1967年10月]
石工銘 登戸㈲ 吉沢石材店
右端の碑で、これだけが第二次世界大戦の慰霊碑です。しかし、他の碑と同様吉沢耕石(石材)が作成されています。
戦後の石造物なので、本来であれば本サイト対象外ですが、吉沢耕石の作品の流れがわかるため、記録しておきます。

北側鳥居

奉献/建立 不明
石工銘 登戸 吉沢耕石
神社北側の三沢川に向いた入口に建っています。石工銘は比較的明瞭に残っているのですが、それ以外の建立年銘などは確認できませんでした。

一之鳥居

奉献/建立 大正四年十一月[1915年11月]
石工銘 (登戸 吉沢耕石)
神社西側の入口に建っています。「石造物と信仰(謝辞[29])」によれば右側台石の裏に石工銘があるはずなのですが、摩耗しており、よくわかりませんでした。