穴澤天神社

所在地 東京都稲城市矢野口3292
府中街道が三沢川と交わるJR稲田堤駅入口交差点から 三沢川を西へさかのぼっていくと、 ご神水が湧く神社の北側入口に出ます。 ここから急な階段(弁天坂)で境内へ阿登ることもできますが、 もう少し先へ行ったところにある一之鳥居から ゆるやかな階段で上ることもできます。
一之鳥居と石水盤、筆塚は石工銘が見つかりませんでしたが、 それ以外の明治以降の石造物は全て吉沢耕石が担当しており、 神社(地元)との関係の強さを感じました。

狛犬

奉献/建立 天保十四癸卯歳三月[1843年3月]
石工銘 古市場村 巳之吉
狛犬タイプ 尾流れ
拝殿前に置かれています。 眉や鬣、尾の渦巻き模様が丁寧に表現されており、 いかつい顔にも関わらず、威厳を感じさせます。
また、台座には天神社ということで梅紋が彫られています。

小俣君寿碑

奉献/建立 明治三十年七月[1897年7月]
石工銘 登戸 吉澤光信
二之鳥居の右横に置かれています。 稲城市の観光サイト[4]によれば 関流和算の指導者だった小俣勇造氏の業績を 弟子たちが頌徳した碑です。

建碑特志■

奉献/建立 明治三十九年五月[1906年5月]
石工銘 吉澤光信
境内の二之鳥居の外側に四基の慰霊碑が並んでいます。 これだけの数が並ぶのはあまり見たことがありません。
これが最も左にある碑ですが、残念ながら碑名の最後の文字が読めません。 人名が列挙され、建立が明治三十九年ということから 日露戦役に関する慰霊碑と思われます。

干城招魂碑

奉献/建立 明治三十九年歳次丙午四月[1906年4月]
石工銘 登戸 吉沢光信
左から2つ目の碑です。 左端の碑と同様に建立が明治三十九年で、 日露戦役戦没者への慰霊碑です。 「干城」とは、国家を防ぎ守る軍人を意味する言葉です。

日露戦役紀念碑

奉献/建立 明治三十九年龍集丙午四月[1906年4月]
石工銘 登戸 吉沢光信
左から3つ目の碑です。 左隣の碑と建立年月が同じですが、 その表現が少し異なっています。 内容は、日露戦役戦没者への慰霊碑です。

大東亜戰争戰没者慰霊碑

奉献/建立 昭和四十二年十月[1967年10月]
石工銘 登戸㈲ 吉沢石材店
右端の碑で、これだけが第二次世界大戦の慰霊碑です。 しかし、他の碑と同様吉沢耕石(石材)が作成されています。
戦後の石造物なので、本来であれば本サイト対象外ですが、 吉沢耕石の作品の流れがわかるため、記録しておきます。

北側鳥居

奉献/建立 不明
石工銘 登戸 吉沢耕石
北側の入口に建っています。 探したのですが、建立年銘は確認できませんでした。