深大寺

所在地 東京都調布市深大寺元町5丁目15−1
奈良時代に開創されたといわれる、都内有数の古刹です。ほぼ東西に走る国分寺崖線を北西方向に穿つように開析谷が食い込む地形となっており、その谷合から谷壁斜面にそって広がる境内の中にお堂や石造物が点在しています。
水と緑が豊で高低差のある境内を巡ると、「ハケ」[2]を実感することができます。
訪問日 2024年7月,2025年6月,2025年9月

狛犬

奉献/建立 天保十二辛丑年二月[1841年2月]
石工銘 新宿追分 甚蔵
狛犬タイプ 尾流れ
元三大師堂の左向かいとなる場所に境内社(白山社)があり、その前に狛犬がおられました。石工銘はかなり剥落していますが、「東京都内の近世石工銘に見る江戸石工について(謝辞[23])」を参考にしています。
説明札によれば、江戸期には十社に及び境内社(神社)があったとのことなので、おそらくそのどれかに奉納された狛犬と思われます。
台座に瀧柳姓の名が見えますが、「ほしひかる 蕎麦談義[4]」によれば、深大寺元町を本拠地とする豪農一族だったそうです。
狛犬本体と台座と傷み具合が異なるのが若干気になりますが・・

道標

奉献/建立 文政三庚辰歳■月[1820年]
石工銘 登戸村 吉沢(藤)吉
説明札によれば、かつて甲州街道に置かれていた道標がこちらへ移設されたとのことです。また、元禄に作られた後に文政三年に再建されたとあり、おそらくその再建時に担当したのが、登戸の石工吉沢の初代藤吉だったようです。

除災招福碑

奉献/建立 大正十一年龍集壬戌春三月[1922年3月]
石工銘 内藤慶雲
元三大師堂の左脇に開山堂へ続く道の入口がありますが、その左横に石碑が二基置かれています。その左側が慶雲の作でした。
石碑銘は「除災招福」ですが、碑文の先頭に「重修石垣碑」とあるため、石垣の改修を記念した碑と思われます。
譔文者が輪王寺の僧となっていますが、同じ天台宗でともに深沙大王を祀っていることから関係が深かったのかもしれません。

戦捷紀念碑

奉献/建立 (明治三十九年十一月)[1906年11月]
石工銘 (内藤慶雲)
深大寺境内西側の釈迦堂の向かいに置かれています。
「クロライナのブログ[3]」によれば、神代村恤兵義会が設立した日露戦争戦死者の慰霊碑です。植栽に隠れていますが、正面左の「山縣有朋」下に石工銘がありました。

常読誦法華塔

奉献/建立 弘化四丁未歳正月[1847年1月]
石工銘 登戸石匠 吉澤藤三良光信
山門を入って左へ進むと、背の高い層塔が置かれています。登戸の石工吉沢の二代目による作で、基壇部の浮彫刻が見事です。吉澤の銘に「石匠」が付くのは珍しいので、かなり思い入れがあったのかも知れません。
壇石に記載された文字の四行目から奉納年を判断しています。

山門前石塔

奉献/建立 明治十二卯七月[1879年7月]
石工銘 溝ノ口 内藤留五郎
山門の左(西)側前に湧き水による池があり、その池の手前左角に石塔が2基置かれており、その右側が留五郎作の石塔です。
発願主として、「嶋田」の姓が見えますが、この池の道を挟んで反対側にある蕎麦屋「嶋田屋」と関係があるのかも知れません。
塔正面の文字は何と読むのでしょうか?(瀧場供羪塔?)

不動堂石燈籠

奉献/建立 昭和五年参月[1930年3月]
石工銘 石匠 内藤慶雲 /門 島田作太郎
深大寺山門から東へ 100m離れた所に、不動堂の門があります。歴史を感じさせるお堂の横には滝もあり、真夏でも涼を感じることができます。
堂の前に慶雲三代目作の石燈籠が置かれています。「調布市の石造物(謝辞[38])」によれば、初代留五郎作の念佛供養塔もあるはずなのですが、こちらは見つかりませんでした。

深沙大王堂跡記念碑

奉献/建立 明治四十年十一月[1907年11月]
石工銘 溝ノ口 内藤慶雲
所在地 地図
深大寺山門から西へ 140m離れた所に、深沙大王堂と呼ばれる水神を祀る鎮守社があり、その本堂前右に深沙大王堂跡記念碑と書かれた石碑が置かれています。
神仏分離令以前は大師堂に匹敵する規模で、鳥居も備わっていたようです[1]。
正面碑題上に「𦾔鎮守」と書かれていますが、「𦾔」は「旧」の異体字です。

そば守観音

奉献/建立 昭和参拾八年八月[1963年8月]
石工銘 深大与宿石匠 中山徳太郎
所在地 地図
「寺とそば[5]」によれば、門前で商売をしている観音講の人々によって奉納されたようです。
右手にそば徳利、左手には そばの実を持っておられます。

地蔵菩薩半跏像

奉献/建立 享保十九甲寅天孟冬[1734年10月]
石工銘 信州伊那郡石屋棟梁 岡右エ門
所在地 地図
「調布市の石造物(謝辞[38])」では、所在地が深大寺城跡となっていますが、現在は 桜田倶楽部 東京テニスカレッジのテニスコート裏に置かれています。
掲載されている写真によれば、かつては角柱形の碑の上に地蔵像が載せられていたようですが、現在は台座・碑・仏像が分離されて並べられています。