布多天神社

所在地 東京都調布市調布ケ丘1丁目8−1
京王線調布駅のすぐ北を並行して走る旧甲州街道に(旧来の)参道入口があり、そこから北へ 400m進んだところに神社があります。
広い境内は緑も豊かで、荘厳な雰囲気でした。また、拝殿の位置が参道中心から少しずれているのも興味深いところです。

狛犬

奉献/建立 寛政八丙辰十二月[1796年12月]
石工銘 不明
狛犬タイプ 尾立て
これだけ古い狛犬が、表面の傷みはあるものの大きな欠損無く残されているのは驚きです。
説明札にあるように、右側の台座に「惣商人中」の文字が見え、橘屋一家との関係が伺えます。

狛犬

奉献/建立 明治十六年九月[1883年9月]
石工銘 不明
狛犬タイプ 尾流れ
拝殿右横に鎮座している境内社(金比羅神社・大鳥神社)前に置かれている狛犬で、角柱のような台座の上に載っています。

石水盤

奉献/建立 明治廿三年十一月[1890年11月]
石工銘 溝ノ口 內藤慶雲
拝殿右横に鎮座している境内社(金比羅神社・大鳥神社)の手水舎の中にある、やや縦長の石水盤です。正面に梅鉢紋が描かれ、菅公由来の神社であることを示しています。

境内社石鳥居

奉献/建立 明治卅九年八月[1906年8月]
石工銘 登戸 吉沢光信
拝殿右横に鎮座している境内社(金比羅神社・大鳥神社)の石鳥居です。二か月後の十月に建立された戦役紀念碑では「吉澤耕石」となっており、ちょうど「吉沢光信」から銘が替わる境目になっています(これが代替わりを意味するのかどうかは不明)。

多摩川の碑

奉献/建立 弘化三年[1846年]
石工銘 矢ヶ崎(村) 矢ヶ崎長左エ門
拝殿手前から右へ入ったところにあります。「公式ページ[1]」によれば、国領宿で寺子屋を開いていた小林信継が碑を建立し、調布の里が万葉歌に歌われた地であることが記されているそうです。
石工は、下染屋神明社の狛犬を作成した矢ヶ崎定次郎の関係者と思われます。

明治卅七八年戦役紀念碑

奉献/建立 明治三十九年十月[1906年10月]
石工銘 吉澤耕石
境内入って右手の柵に沿って並んでいる石碑の中の一つです。達筆すぎて読めませんでしたが、「桜花の絆[3]」によれば、明治卅七八年戦役紀念碑」と書いてあるそうです。日露戦役における戦没者と従軍者に対する慰霊顕彰碑ですが、説明札と「新選組観光なび[4]」によれば、戦死者の中に新選組局長近藤勇の孫の名前があるそうです。

忠魂碑

奉献/建立 明治二十八年十二月[1895年12月]
石工銘 内藤慶雲
境内入って右手の柵に沿って並んでいる石碑の中の一つです。碑文が全て漢文で書かれていますが、「桜花の絆[5]」によれば、日清戦役における戦没者 荒井釜三の慰霊顕彰だそうです。

橘屋一家功労碑

奉献/建立 昭和参年三月[1928年3月]
石工銘 国領 橋本安五郎
境内入って右手の柵に沿って並んでいる石碑の最右側です。碑文と「歴史と古文書とともに[2]」によれば、布田天神社境内に立つ市を取り仕切る江戸時代以来の香具師であった橘屋一家(野口家)の功績を表彰した碑です。

石燈籠

奉献/建立 (嘉永五年)[1852年]
石工銘 登戸 吉澤藤三光信
境内入ってすぐのところ右に一つだけ置かれています。火袋部は再建されていますが、他の部分はオリジナルのままと思われ、耕石二代目の手による台石の獅子像が見事です。
竿部にある奉納年銘が摩滅と逆光のため読み取れず、「東京都内の近世石工銘に見る江戸石工について(謝辞[23])」から引用しています。