菅薬師堂

所在地 神奈川県川崎市多摩区菅北浦4丁目16−2
府中街道が三沢川と交差する JR稲田堤駅入口交差点から南に入っていくと、多摩丘陵の麓に薬師堂が鎮座しています。
建物(伽藍)はごく小規模なものですが、残されている石造物は多く、内藤慶雲、吉沢耕石それぞれ初代の作があるだけでなく、後継者達の作も見ることができるという極めて稀有な場所です。

醍醐塔

奉献/建立 嘉永三庚戌年八月[1850年8月]
石工銘 登戸 吉澤藤三光信
本堂前左側に建っています。倒壊予防のため上部が鉄柵で覆われていました。最上段の台座には見事な彫が施されています。吉沢耕石二代目の光信が作成し、その後、大正十三年十一月に改修されているようです。(改修も吉沢耕石が行った可能性がありますが、銘は確認できませんでした)

石坂供養塔

奉献/建立 明治九丙子年三月[1876年3月]
石工銘 溝ノ口 留五郎
醍醐塔の裏に石碑が並んでいますが、その左端が慶雲初代 内藤留五郎の作でした。正面に「石坂供養塔/十方他力」と彫られています。

日露戰役忠魂碑

奉献/建立 明治三拾九年四月[1906年4月]
石工銘 内藤慶雲
境内右(北)側の隅にも石碑が並んでいます。その中で最も大きいものが、この忠魂碑です。

石宮

奉献/建立 大正二年二月[1913年2月]
石工銘 登戸 吉沢耕石
忠魂碑の左横に石宮が祀られています。太子講による奉納と見られ、台座に「聖徳太子」と彫られています。

慰霊塔

奉献/建立 昭和二十七年十月[1952年10月]
石工銘 慶雲
石碑群の左端にも大きな碑が建っています。大戦後に菅公民館により建立されています。

常夜燈

奉献/建立 文化元甲子八月[1804年8月]
石工銘 登戸村 吉澤藤(吉)
本堂前階段上がったところの左側です。(左側と右側で奉納年が異なるため、別物として取り扱います)
石工銘が一部埋もれていますが、吉沢耕石初代の伊勢屋藤吉と思われます。
吉澤石材店のブログ[4]では、これが現存する一番古い石造物であると書かれています。

常夜燈

奉献/建立 天保四癸巳年二月[1833年2月]
石工銘 不明
本堂前階段上がったところの右側です。左側より約30年後の奉納となっていますが、ほぼ同じ形状で作られています。

常夜燈

奉献/建立 天保十二辛丑四月[1841年4月]
石工銘 矢野口村 (助五郎)
本堂前の階段左横に置かれています。左側しかなく、右側にはなにもありませんでした。石工銘は一部が瓦?に隠されて確認できませんでした。(「川崎市石造物調査報告書(謝辞[11])」から引用しています)

敷石紀念碑

奉献/建立 明治三十七年九月[1904年9月]
石工銘 溝ノ口 内藤慶雲
本堂前手水舎の横に置かれています。

石水盤

奉献/建立 文化三(丙寅八月)[1806年8月]
石工銘 (登)戸 藤吉
本堂前階段の右横に手水舎があり、そこに石水盤が置かれています。正面に「奉納/手水鉢石/大願成就」と彫られています。側面は剥落があり、年銘は「川崎市石造物調査報告書(謝辞[11])」を引用しています。
「藤吉」は吉沢耕石初代の伊勢屋藤吉と思われます。