宗隆寺

所在地 神奈川県川崎市高津区溝口2丁目29−1
多摩川を二子の渡しで越え、 溝の口駅北側を通る大山街道を進み、 溝口駅入口交差点を過ぎて 約50mのところから 北へ延びる道が参道となっています。
平瀬川が丘陵を削った斜面が寺院境内と墓所となっています。
「川崎市石造物調査報告書(謝辞[11])」によれば、 他に慶雲の「開宗七百年植樹記念碑」と 小俣松五郎の「石坂供養塔」があるはずなのですが、 確認できませんでした。

芭蕉句碑

奉献/建立 文政十二年己丑四月[1829年4月]
石工銘 (二子石匠 小俣松五郎)
本堂左手の植込みの中に句碑が建っています。 碑面右下に「芭蕉翁」とあり、 「㔺(世)ゑ(を)旅に/代かく小田・・」と芭蕉が名古屋で詠んだ句が 刻まれています[2]
背面にある「玉川老人亭(宝水)」は、 芭蕉の門下生でもあった、溝口で薬屋を営む灰吹屋三代目仁兵衛の 俳号です[5]
石工銘は確認できませんでしたが、 「溝ノ口の町のできごと[3]」によれば 小俣松五郎の作とされています。

経典供養塔

奉献/建立 文政元戊寅歳十一月[1818年11月]
石工銘 不明
本堂前右手に 3m近い高さを持つ塔が建っています。 正面に「五百五十遠忌」とあり、見事な龍の彫りも見ることができます。 (参道を向いた方を正面としています)
塔の背面に文政元年の銘があるのですが、 背面台石の上段に「安政二・・ 大地震・・安政五・・」とあり、 さらにその下の段に「大正十二年九月・・大地震・・大正十四年・・」とあり、 何度も震災に遭いながらも再建してきた歴史が伺えます[7]

萬霊塔

奉献/建立 明治四十年十一月[1907年11月]
石工銘 内藤留五郎
本堂前参道左側、手水舎の横に建っています。 正面に題目「南無妙法蓮華経 法界萬霊」とあり、 背面の発起人の中に留五郎の名があります。

内藤家墓碑

奉献/建立 大正十年九月[1921年9月]
石工銘 内藤留五郎
本堂と祖師堂の間を抜けて墓苑に入り、 苑内の階段を少し上がったすぐ右横に内藤家の墓所があります。
中央に新しい墓石、その右に「内藤一門之供養塔」があり、 左右に2基ずつ墓石が向かい合って建てられています。
[中央]施主:内藤寛、建立:昭和四十年三月
[供養塔]施主:内藤寛 他、建立:昭和四十四年十月
[左奥]施主:内藤慶三、建立:大正十二年九月
[左手前]施主:不明、建立:明治廿八年十二月?
[右奥]施主:内藤吉左衛門/内藤留五郎、建立:大正十年九月?
[右手前]施主:内藤留五郎、建立:大正十二年九月
施主と建立の両方が明確で最も古い右手前を登録しています。

䂖工唐戸彌吉之墓碑

奉献/建立 明治四十一年三月[1908年3月]
石工銘 内藤慶雲
本堂と祖師堂の間を抜けて墓苑に入って すぐのところに高さのある自然石の墓碑があります。 内藤家墓所の中央供養塔左面に「唐戸五郎 ・・・ 彌吉」の名があるので、 慶雲門下の石工だったと思われます。 (なので永代施餓鬼料も慶雲が最も多い)
※戒名(春容端正)がおしゃれ

題目塔

奉献/建立 紀元二千六百年[1940年]
石工銘 (内藤石匠)
大山街道から宗隆寺へ向かう参道入口に置かれており、 塔本体左側には「明和三丙(戌)歳/十月(1766年)」の銘があります。
「さいわい歴史副読本Ⅲ[8]」の中に「宝塔は風にさらされ、破損が著しくなったので、 台石は内藤石匠によって補強された。」との記述があります。 台座に石工銘はありませんでしたが、 補強を示す銘があったため、内藤慶雲の作としています。