圓福寺

所在地 神奈川県川崎市高津区下作延7丁目10−1
下末吉台地の北端を平瀬川が削ってできた谷戸の入口にできたのが溝ノ口ですが、そこから谷戸の中を西へ進んだところの北側斜面に寺院があります。参道入口は現在南部線沿線道の下作延交差点に面しています。そこから民家の中の細い路地坂を100mほど北へあがると山門に出ます。
背後の台地面には自然が残っており、境内には観音堂や天満宮などが立ち並ぶ広い寺院です。
下記の石造物はいずれも 1892~1899年に同一人物(第三十世藤原巨海)によって建立されており、この時に大規模な改修があったように見えます。
※「松柏林塾」を寺で開いた鈴木孝順は後を継いだ第三十一世となります。

石水盤

奉献/建立 明治二十七年春(彼)岸[1894年3月]
石工銘 二子 小俣松五郎
本堂前右手の手水舎の中に置かれています。正面に「奉納」と卍紋が彫られ、背面に石工銘と「当山丗世代」(藤原巨海)の文字が見えます。

六面六地蔵像

奉献/建立 明治廿五稔春彼岸[1892年3月]
石工銘 溝之口 内藤慶雲
境内右手前に置かれています。建立年銘の「廿」には異体字が使われています。また、寄付者の一人に藤原巨海の名があり、末尾に「當山卅世建立」とありますが、他の石造物によれば同一人物です。

石階敷石供養之碑

奉献/建立 (明治二十六年)癸巳五月[1893年5月]
石工銘 内藤慶雲
境内右手前すぐのところに置かれています。碑文の中に「癸巳之春諸工告竣更築石階敷石■於五月落成・・」とあるので、碑の建立年を癸巳の明治二十六年と推定しています。また、碑文冒頭に「吾巨海老師」とあるため、この再建事業は巨海の主導で行われたようです。

囘國供養塔

奉献/建立 元文丁巳歳十月[1737年10月]
石工銘 不明
山門前の左手奥に江戸時代の石造物が置かれています。台座正面に「奉納大乗妙典/六十六部日本/囘國供養塔」とあり、塔の上部が仏像となっています。
『囘』は『回/廻』の異体字です。『六十六部廻国供養塔』は、六十六部行者と呼ばれる、諸国を遍歴する行者が建立した供養塔で、巡礼の起源とも言われています[2]

札所塔

奉献/建立 明治卅四稔春彼岸[1901年3月]
石工銘 不明
山門前階段の右側に置かれています。正面に「準西国稲毛三十一番札所/聖観世音菩薩」とあり、左面の寄付主の中に『藤原巨海』の名があり、右面には奉納年銘と「當山卅世巨海建立」が彫られています。
※奉納年銘はほとんど読み取れませんので、「川崎市石造物調査報告書(謝辞[11])」を引用しています。

巨海橋供養塔

奉献/建立 明治三十二年四月[1899年4月]
石工銘 溝ノ口 内藤慶雲
参道入口となる下作延交差点の左側道端に置かれています。正面に「巨魁橋供養塔」と書かれています。南部線沿線道はかつての平瀬川に沿っているので、ここに川を渡る石橋があったのかも知れません。
塔がブロック塀ぎりぎりに置かれているため、背面については断片的にしか写真に撮れていません。寄附人として「當山三十世 藤原巨海」と記されていることから、三十世が藤原巨海を指していることがわかります。

石塔

奉献/建立 明治三十二秊十二月[1899年12月]
石工銘 内藤慶雲
下作延交差点の新しい社号標の後ろに古い塔が左右に置かれています。幟立てではさそうで、門柱のようにも見えます。
左側正面に「巨海壹龍躍??」、右側正面に「人間生死拾如夢」と読めますが、検索しても合致する情報がなく、意味含めて謎です。